私は男性で企業社会に身を置いてきました。そういう立場、いわゆる「経済優先」という立場にいる者が、このブログを通して「環境問題」を考えていこうとしているわけですが、私の中で交錯する複雑な思いというものがあることを認めざるを得ません。
まだブログを開設して間もない時期に一度、その複雑な思いというものを文章にして、お伝えしたいと思っています。それが、現時点での私の立ち位置の表明になるかと思います。一年後、数年後にこの文章を読んでどのように感じるか楽しみでもあります。ただ、時間がないので、数回に分けて書きます。
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10数年前にフィリピン女性の駆け込み寺の活動をしていた女性の人と環境問題について議論したことがあります。その時のひとつの問いかけが今でも私の心に残っています。
たぶんフィリピンでの日本企業の開発行為が問題になった時期であったと記憶しています。商社による森林伐採によって、山崩れが起こり、多数の死者を出した事件がありましたが、そういう話から話が始まったと思います。
その時の私の主張は「私たちの生活を江戸時代のレベルに戻すことはできないし、彼らが貧困から解放されるためにも開発は必要なんだ。」ということでしたし、彼女は断固「生活を江戸時代に戻せばいい。私はそれでも生活できる」ということでした。もちろん。おわかりのように平行線の議論で終わったわけですが、その後、常に「生活を江戸時代に戻せるのか」という命題が、私の頭の中に住み着くようになりました。
これは「人類の幸福と開発」という命題です。「発展や開発は人類を幸福にする」と信じて歴史を歩んできた人類が、本当にそうなのかと疑問を持ち始めたのは、よく言われるように
ローマクラブの『成長の限界』(1972年)の警告でした。(環境問題ということで考えると、それに先行すること10年前のレーチェル・カーソンの『沈黙の春』がありますが、この『
沈黙の春』(1962年)と『
成長の限界―ローマ・クラブ人類の危機レポート』が環境問題でも原点といわている通りです。)
これが70年代のことですが、その後も日本では公害、ごみの島、ヘドロ問題など思いつくだけでもいろいろな環境問題に直面しながらも、やはり基本的には「成長神話」を信じて20世紀を突き進んで来たわけです。
私は、その中で大学時代を過ごし、企業社会に身を置いてきたわけで、思考は「成長神話」に毒されていたといえます。その結論が「私たちの生活を江戸時代のレベルに戻すことはできないし、彼らが貧困から解放されるためにも開発は必要なんだ。」ということだったと思うのです。
それが、どこで転回を迎えたのでしょう。
<次回に続く>
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