24歳でなくなる前に立原道造は本気で別所沼湖畔に週末住宅を考え、何枚の設計図やデッサンを残しています。
昭和14年の頃です。当時の浦和には多くの画家が住んでいました。
須田剋太、里見明正、深沢紅子といった人で「鎌倉文士に浦和画家」といわれていたようです。
芸術家村の様相だったようです。
詩人の神保光太郎も住んでいたことから別所沼のほとりに小さい週末住宅を作ることを考えたのでしょう。
風信子荘・ヒアシンスハウスと名づけ、名刺まで作っています。
「埼玉懸浦和市外六辻村別所ヒアシンスハウス」となっています。
建築家としての才もなかなかのもので東大建築学科在籍中に辰野賞を3年連続で受賞。
まさに将来を嘱望された人だったわけです。
詩人としては堀辰雄らが主宰する『四季』で活躍。
………………
パステル
パステルは
やはらかし。
うれしかり、
ほのかなる
手ざはりは。
うれしかり、
パステルの
色あひは。
………………
鉛筆・ネクタイ・窓-草稿 1938年
僕は、窓がひとつ欲しい。
あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持ってゐなくてはいけない。
ガラスは美しい磨きで外の景色が少しでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。
そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのってゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪郭がいくらか空の青に溶けこんでゐる。
僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座ってうつらうつらと睡つてゐる。夕ぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。…
………………
いまは公園となっている別所沼の中にヒアシンスハウスが建っています。
日曜日には中を見ることができます。
また東大のある文京区弥生には立原道造記念館があります。

[0回]